手のひらを広げて、じっと見下ろす。
 そこには傷はなく、痛みもない。
 痛むのは、胸だ。
 何を、間違えてしまったのだろう。
 どこで、間違えてしまったのだろう。
(お前さんはなにも悪くない。お前さんにできることなど、ないのだから)
 キアダンはそう言って、僕の瞳を見つめた。
 二度目だな、と思った。
 父の、
 死の知らせ。
 取り乱した僕を、
 キアダンは力強く抱きしめてくれた。
 あんなに錯乱する事は、もう二度とない、と、思っていたが。
 胸が痛む。
 結局、友を救えなかった父への同情、
 短い間とはいえ、擁護してくれた者を失ったエルロンドへの同情、
 なのだろう。
 僕は
 僕は、
 マエズロス殿のことも、マグロール殿のことも、

 好きだった

 憧れていた。
 尊敬していた。
 
 彼らが堕ちて行くことが

 哀しいのだ。

 父のためじゃない
 エルロンドのためじゃない

 僕が

 哀しいのだ

 

 小さな蒼いガラスの器に、一粒の真珠を載せてある。
 乳白色で虹色に輝く珠を、指先で弄ぶ。
 真珠はキアダンが昔くれたもので、器は雑多な荷物の中で、たまたま目に付いたから持ってきたものだ。
 青い色は、よく晴れた澄んだ空の色で、空を映す海の色で、昔知っていたシンダールの青年の瞳の色だ。
 自業自得だと、彼なら言うだろう。憎しみを込めて。
 マエズロスらは、それだけの非道な罪を犯したのだから。
 真珠をつまんで、陽の光にかざす。
 キレイなだけで、何の力も持たない宝石は、何も語らない。
 真珠に感情はなく、持ち主が代わろうと、どんな扱いを受けようと、
飾られようと、捨てられようと、何も感じない。しょせん、石は石であり、それ以上にはなれない。
 それでいい。
 窓辺から離れ、ギル=ガラドは部屋の奥に足を向けた。
 寝室には暖炉があり、湿った海の空気を暖め乾かしている。
 もともとギル=ガラドの寝室であり、先ほどの真珠のような飾りや、書籍などが置かれている。
が、ギル=ガラドはここをあっさりとエルロンドに譲った。
私物に執着がないといえばそれまでだが、王のためにしつらえた寝室は、
エルロンド青年にふさわしいだろうと思われた。
ギル=ガラド自身は、エルロンドとここでたまに食事をするくらいで、執務室にこもりっきりになった。
もともと、眠りをあまり必要としないエルフなので、ベッドはほとんど使われていなかった。
 エルロンドを気遣い、多忙の合間を縫って会いにくると、
エルロンドがベッドで寝ていることがあり、微笑ましく思えた。
 人間の血が、彼に眠りを必要とさせるのか。
 今、ベッドで眠るエルロンドは、血の気が失せ、もともと白い顔が蒼白になっている。
暖炉の火を少し強めにして部屋を暖めているおかげで、数刻前よりはだいぶマシになっているが。
 己の母を海へ追い込んだ男を、真に愛するなど、理解しがたい。
エルロンドがマエズロスやマグロールを、憎みこそすれ愛するなどありえないことだ。
ギル=ガラドでさえ、最初はそう思った。
 愛しているふりをしているだけだろう、と。
 だが、マエズロスらがシルマリルを奪還せんと行動し、
その罰を受けたという知らせは、想像以上にエルロンドを落胆させた。
 マエズロスがエルロンドをギル=ガラドに預けに来た時、ギル=ガラドは薄々気付いていた。
そうするであろうことを。だから、哀しくはあったが、その知らせに驚きはしなかった。
 もっと、エルロンドを気遣ってやるべきだった。
 エルロンドは、本当にマエズロスとマグロールを愛していたのだ。
 だから、遥か遠くのマグロールの悲観の歌が聞こえ、マエズロスの手のひらの激痛を感じたのだ。
 数奇な運命の中、エルロンドは強くあろうとしているだけで、本当は優しく脆い心を持っているのかもしれない。
 それに比べ、自分は強かだ。ギル=ガラドは苦笑する。
 エルロンドの眠るベッドに腰を下ろし、そっとその黒い髪を撫でる。
長いまつげは、母親似だな。繊細で儚げで野に咲く花のように美しいエルウィングは、芯の強い女性だった。
「………」
 エルロンドの唇がわずかに開き、息を吸い込む。空ろだった瞳に、光が戻る。
少し頭を傾け、自分の頬に触れるギル=ガラドの指に唇を寄せる。
 ギル=ガラドはエルロンドの手を取り、その手のひらをそっと撫でた。
「まだ、痛いか?」
 エルロンドは首を横に振る。
「…ギル…ガラド王……本当に……マエズロスは、逝ってしまった……の…ですか」
 ギル=ガラドはゆっくりと頷く。エルロンドの瞳に涙が溢れ、零れ落ちる。
ギル=ガラドがエルロンドの手を握ると、強くそれを握り返し、エルロンドは声を殺してすすり泣いた。

「…申し訳ありません…王…お忙しいのに」
 ギル=ガラドの膝の上に頭を乗せたまま、エルロンドが小さく呟く。
「かまわん。私も、マエズロス殿とマグロール殿のことには胸を痛めている。かつての勇姿を知っているからな」
 私も、彼らを愛していたのだ、と、付け加える。
「すまなかった、エルロンド。きみが心を痛めていることを、もっと思いやるべきだった」
「そんな…」
 寄りかかり甘えていた事に気付き、エルロンドは頬を染めて慌てて頭を上げた。
ギル=ガラドは目を細めるようにわずかに苦笑し、エルロンドの頬を片手で包むように撫でる。
「話をしよう。もっと早くにそうすべきであった。
きみの知っているマエズロス殿とマグロール殿のことを、教えてくれ。
私の知っていることを話そう。善いことも悪いことも」
 思いを共有し、悲しみを共有し、きみの孤独がそれで癒されるのなら。